id:gamesideさんのインターネットで死ぬこと、現実で生きること - ゲームサイドUG neo
を読んで。
私はインターネットで生きていたいのだと気付いた。
現実に会って「生きている私」を更新できないのならば
twitterで、Google+で、mixiで、生きていたいのだと。
もともと、インターネット上でアカウントを取って
言葉を紡ぐ場所はすべて、
私が死んでしまっても、私の意思を伝えるための手段、という意識がある。
もっと言えば、私が死んだあとにこれらの言葉すべてを
つぶさに追ってくれる存在がいることに憧れている。
たぶんこれは、インターネットに漂い始めたころに
南条あやの日記を読んでしまったせいでもあると思うけれど。
たとえば、誰かと一緒に行った旅のことを忘れたくないと思って
自分の日記にしたためたとして。
それは自分のなかで何度も再生できるけれど、
時が経つにつれて掠れていく。
日記の中の情報が全てで、思い出はやせ細っていく。
だけど、インターネットにそれが置かれることで
誰かのコメントによって補足されたり
どこかで話題になって、一緒に旅した誰かもまた思い出を再生できたりして。
自分と誰かの思い出すきっかけになるチャンスがある。
そのことが大切。
それが自分が死んだあとにでも。
あなたの思い出の中にずっと生きていたい。
忘れることも忘れられることもすごく厭だ。
だから私は言葉を尽くすし、
言葉にならないことは写真を撮る。
鮮やかな存在感。
それを手に入れるにはどうしたらいいんだろう。