体育館裏で待つ

正義と正義が出会ったら争いになる。

というのは中二くらいになれば気付くことなんだろうけど。

 

自分の正義を人に押し付けないというポリシー - 今日の良かったこと

ここでいう正義っていうのは、「この国を良くしてやる!」とか「犯罪者は許さない!」みたいな強い主張ではなく、「私って、コレ好きなんだよねー」とか、「あいつ、なんとなく気に入らねー」みたいな、日常にありふれた感情も含まれます。

そういう主義主張から好き嫌いまで含めて、他の人には押し付けないようにしようと。

 

 

私の場合、私の正義が通らないと少なからず腹を立てていることが多い。

いいなと思ったものは、理由がない限り採用してほしい。

となると、言い過ぎではあるけれど、そんな感じ。

 

寛容じゃないのだ。この日常では。

歩調を合わせずに歩く目の前の人、

混んでる車内で大荷物を抱えている人、

臭い人、不潔な人、マナーのない人、

1日に目にするたくさんの不愉快な人間たちを

呼びつけて叱り諭し改めさせることなどできない。

許す寛容さを持つ気にもならない。

 

せめての自己満足で、

身の回りの会話ができる人たちに対して

「こういうのは迷惑になるよね」

「こういう行動をすべきだよね」

というのを確認する。

自己正当化のためにも。

 

そう、こういうのに寛容じゃないのは

私自身の育ちが悪いのも多分にあると思う。

無知の恥を晒して生きてきた。

誰かと確認をしなければ、

自分が間違っていないか、安心できない。

 

ほんとうに、本当に悪しき性格だと思うけれど

私の一番アクティブなtwitter

不特定多数に向けた悪意がちりばめられている。

「こういう人は不愉快だ」と全力で叫んでいる。

その悪意を該当する知人に適用することはないのだけど、

でもツイートを見て改めてくれたらいいと思っている。

正義を押し付けている。

 

個人的には、こういう発言をする人を好んでフォローしている。

自分を省みるチャンスが多いと思うから。

迷惑な存在にならないためにはどうしたらいいのか、

ずっと模索している。

 

 

悪癖を晒したついでに、険のある発言してしまうと、

こちらの切実な訴えに対し、

なんの考えもない返答で無にされると

怒りを通り越して呆れる。関係性を清算したくなるほどに。

 

会話でよく聞くのは「いいじゃん」

相手の言葉をまるで聞かずにただ自分の要求を通すときの発言だ。

なんで、考えた人の言葉が、気持ちが

考えていない人に無下にされなければならない。

 

最近は、思考の密度について考えている。

例えば、考えていることを文字に起こした場合

どれだけ情報量のあることを考えていられるか。

その個人差とは。分野による違いとは。

 

私自身は決して頭が良くないので

思考の密度は低そうだ。

政治に関してこれは切に思う。

「真剣に考えて選挙に行った人と、

これしか考えてない私が同じ1票なのはおかしい」

馬鹿なりに考えた挙句、

自分より考えている人の考えに触れて

納得したことを寄せ集めて私の意見を作ろう。

ということにした。

これは他の分野でも採用して、割とうまくやれている。

虎の威を借りるように、

馬鹿が借り物の理論をかざすことだけはしないように心がけている。