誕生日のお祝いで、旅行していた帰り道。
見覚えのある市外局番からの着信履歴に気付いて
調べてみたら地元の警察署だった。
この時点で察しがついたのだけれど、実家で一人暮らししていた母親が亡くなった。
こういうのをノウハウもなしにWebコンテンツにするのもなー
という抵抗感はありつつ、亡くなってから約半年が経ち
気持ちもけっこう動くので記録しておこうと思う。
悪口を書き連ねればキリがないようなひとだった。
私を幸せにすることはできないと悟ったような子育てを受けていた。
私の結婚パーティーに親は呼んでおらず、アルバムだけは作って渡したのだけれど
「うちじゃこんな笑顔はできなかったものね」としみじみ言っていた。
中高生だった6年間、まともに話せた記憶がない。更年期障害とキッチンドランカーを逸脱したアル中の相乗状態だった。暴力もあった。
彼女の葬儀の少し前から、そのころの暴力が発端と思われる股関節亜脱臼をこじらせて、杖なしでは歩けなかった。たまにあるんだけど、やけに悪化するなと思ったら。
虫の知らせみたいな痛みだった。
今どきは棺桶に贈る品とかは入れられないらしい。
花だけはいくらでも詰めていいとのことだったので、葬儀屋のメニューで一番多いものを選び
さらに実家の庭で彼女が育てていたものを摘んできて追加した。
「こんなにいっぱいお花入れてもらってるの見たことない」と葬儀屋。
子育てを終えた母が楽しんでいたのが庭いじりだった。
常に庭にいるから、電話をしてもインターホンを押してもなかなか出ない。
雪の積もる地域で、育てるのが難しい地質なのだけれど工夫して楽しんでいたようだ。
かつて、母の日に毎年かわいい鉢植えを贈って喜ばれてはいたのだけれど
「気候が合わないみたいで、ダメになってしまうのが悲しい」と言われてその習慣は終わった。
居なくなってしまえば、もう嫌な思いをすることもない。
与えてもらったもののありがたさや、本当に分かりにくい優しさなんかを
何度か夢で取り出しては、失ったことを思い知る。
私が身体を壊していた数年は、彼女の精神状態が良くて
奇跡のように仲がよかった。暇を持て余しては電話して、他愛のない会話をした。
「3歳くらいのときさ、2人で映画に行ったじゃない。あれなんだったの?」
「下の子が生まれてから、かまってあげられないのが気がかりでね。ずっと2人で出かけたいなって思ってたの」
そのことを聞けただけでよかった。つらいだけの存在じゃなくて、ちゃんと母親をしてくれていた。
攻撃的なときと過保護なときを揺れ動いていた。数年前からはやけに攻撃的だったのと、コロナ禍もあってろくに連絡をしていない。
あるとき、母親が文庫化されたら読みたいと言っていた小説が本屋に並んでいて、読み終わったら送ろうと思って買った。
どうせ送るならと、彼女が好きそうなコミックエッセイも買った。
だけど、あんまりコンタクトをとるのも嫌で、レターパックで送ってみたら電話が来て、これ図書館に寄贈していいのよね、と。
この子にしてこの親ありというか、私たちはモノを所有したくない気持ちが強い。本当に気に入ったものしか残さないので、落選したんだなと、少し残念な気持ちになったのが最後。
ところが、葬儀の機会には気付かなかったけれど、新盆のために帰ってみたら、送った本がそのまま揃っていた。手に取りやすい一群のポジション。
本棚には私が買ったのかと錯覚しそうなラインナップ。趣味が似ていることを思い出す。
最後の接点が、残念なだけじゃなくてよかった。
棺桶にお花以外入れられない代わりに、上に留める帯に寄せ書きをしていいらしい。
愛憎入り混じりの混乱の最中に、残していい言葉が思いつかなくてお借りした和歌を最後に。
ある時は ありのすさびに憎かりき
なくてぞ人の 恋しかりける